家具職人への道挫折

8歳のときに遊びに行った友達の家で、この部屋にある家具はお父さんとお母さんが結婚するときに、お父さんが作ったという衝撃の一言。

私も婚礼家具を自分で作りたいと憧れを抱いた出来事

家具職人への道1・少女時代の衝撃

の続きです。我慢が足りず挫折した恥ずかしい黒歴史…。

家具職人への道2・就職で東京へ行くもすぐに退職

中学生になると、バスケットボールに夢中になり友達のお父さんが婚礼家具を自作したことに感動したことをすっかり忘れている私。
家具職人中学生の頃
相変わらず、家の設計図を描く趣味は続いていましたがいつも仕事で不在の父、家族でそろってご飯を食べるのは正月ぐらいで、反抗期も重なり口を利かない日々、いつの間にか、家族みんなで住む設計図を描くことから遠のいていきました。

生意気で親のありがたみも気が付かないクズな私は反抗期の自立心が異常に強く、親からお小遣いをもらうこともイヤになってきて早く働きたい、早く家を出たい。早く大人になりたいと、ずっとふてくされた可愛くない子供でした。

高校進学の際にも相談せず、自分で決めたのは工業高校の建築科。やっぱりふてくされても設計のことには興味がまだあったのです。同じ働くならやりたいことや好きなことを仕事にしたい!という気持ちは中学校の頃からずっと思っていることです。

市立の滑り止めを受けなさいと母親に言われましたが、行くつもりもない高校の受験するなんてお金も時間ももったいない!万が一行きたい学校受験に失敗して、私立に行かないといけなくなるのも嫌だから受けない!と頑固で公立の工業高校のみ受験しました。

高校受験も独学で無事に合格し、やっとバイトができる!っと張り切って、春休みにバイトを探して早速掛け持ちでバイトをしました。どちらも飲食店です。掛け持ちなので、平日の夜と土日は朝から夕方のお店と土日の夕方から晩までのお店と2つです

なぜ、お金が欲しかったかは、自立する資金と車の免許取得資金です。卒業して働いてからでは絶対に教習所に行く時間は無いから高校3年になって誕生日が来たらすぐに取得しようっと、計画を立てていました。

そんな高校生の夏。仕事人間の父は突然他界しました。私はいつも家にいない父に反抗をし、自立するためにバイトに勤しみ、ふてくされて生きていたので、悲しさや寂しさというよりは母とどうやって行きていくか?ということを考えていました。

(父が一生懸命働いていたから屋根のある家で寝床があるというありがたみに気がつくのはあとのことでした。ちなみに私は大人になってホームレスも経験してるし…。)

父がなくなってから母はよく言いました。必ず、手に職をつけるように資格を取るようにと。

その理由は母は結婚をして、仕事を辞めて以来、パートしかできず、実際父がいなくなってから、まだ中学生だった弟を大学に行かせるためと自分の老後のことが心配になったのだと思います。

母は精神的にももろくなり寝込むことも多くなりました。いつしか家に帰るのが怖くなったり、母の病から目をそむけたくなったりして腐っていました。今思えば父を亡くしたショックもあったと思いますが心無い私は全く気が付かずに怠けていると思って嫌悪感を抱いたこともあります。

私の中で、結婚して専業主婦になるということがどんなに不安かと思い、必ず自分で生計が立てていけるようになろうと思いました。

学費がもったいない、早く仕事をしたい。大学進学は考えられず、内装関係の会社に就職をして、寝込みがちな母を見捨てるように実家を出ました。しかも遠い東京へ…。

開放感に満ち溢れたのはつかの間、夜になると母のことが心配で心配で涙が出てきました。母は大丈夫だろうか?ちゃんと安眠できているだろうか?自分が飛び出したはずなのに、いろんなことを考えるといても立ってもいられなくなり、

就職にして初めての休みの日曜日に新幹線に飛び乗り実家に帰り、もう会社は辞めるっと会社のことを考えずに自分の意志だけ貫いて非常識にもすぐさま退職をしたのです。

(その後も非常識な行動が多い私は社会生活不適合者だとつくづく思います。)

今考えると、母が心配とか言いながら自分自身が新しい環境に馴染めなくて不安だったことから家のことが心配という言い訳をして乗り越えることができなかったんだろうし、家が嫌で家出したような感じの罪悪感もあったと思います。

周りからは東京に行くって勇気あるね、頑張ってね!かっこいい!などと言われて送り出されたのに、とっても恥ずかしい思いをして戻ってきて人と会うこともできなかったです。情けない黒歴史です…。

もちろん実家に帰っても人として自立した生活に向けて手に職つけて働かなきゃっとすぐさま就職活動をしました。

家具職人への道3~住宅販売営業マン時代~宅建取得に続く

編集後記